日本祭りというのがあり、それに大使館の手伝いとして参加した。やることは浴衣をきて、ブラジル人と写真を撮るというものだ。行く前に友達から下駄をもらっていたので履いていった。まさかあの下駄が使えるタイミングがあるとは思わなかった。それ以外にも学校に履いていったり、スーパーに履いていったり、意外と使えることがわかった。下駄を履いていると向こうから勝手に話しかけてくれるので、会話の練習にちょうどいい。ただ歩くたびにカツカツと大きめの音がなるので、深夜の寮を歩くときは履かないようにしている。 添付した写真は私が一番好きな場所の写真だ。 明文化されていないルールや慣習がない社会は存在するのだろうか。もし明文化されていないルールや慣習、決まり事がない社会が存在するとしたら、それはどんな些細なルールでも全て文になっているということだと思うのだが、果たしてそんな社会は存在し得るのか。なぜこの話題に触れるかというとそれは明文化されていないルールなどというのは、いわゆる空気や暗黙の了解というやつだと思われるからである。日本は同調圧力が強く、空気に敏感であり、海外にはそんなものはないという意見はよくある意見の一つであると思われる。しかし、それは本当なのであろうか。もしかしたら、ただ海外の空気、暗黙の了解を外国人である私たちが知らないだけなのではないだろうか。これは先月書いた異文化交流=別の身内ノリという話に繋がると思う。海外の「空気」がわからない空気の読めない人になる可能性があるのである。しかし、これは海外に行ったら、即空気の読めない人になるというわけではない。なぜなら、そもそも海外の「空気」なるものがあるのかどうかはわからないし、それゆえに自分が空気を読めているのかどうかもわからないからである。 自分が思っている以上に私は日本的な人間であることがわかった。今まで20年間過ごして慣れた日本的な態度というのは強力的なものだ。特にブラジル人の多くは本当にずっと話し続けていることに衝撃を受けた。話すのが好きとかいうレベルを超えていて、そんなに口を動かして顎とか顔とか疲れないのかなと思う。これはおそらく主語が大きく、喋るのが好きではないブラジル人もいるだろう。しかし、私の周りにいる(サンプル数の少ない)ブラジル人は本当によく喋る。主語が大きいということはある種の強調表現で、その強調表現を使いたくなるほど、よく喋るということだ。最初来た時はリスニングの練習になるからよかったくらいにしか思っていなかったのだが、ずっと会話の中にいると耳が疲れてきて、最後には日本語のリスニングもままならなくなり、一回会話を休憩して欲しい。この会話が好きというのは授業中の発言に躊躇がないということに関係があるのだろうと思った。 日本の中で感じる多様というものが結局は日本の範囲を超えていないということがわかった。どういうことかというと、どんなに自分と違うと思う日本人でもどこかで共通の認識を持っている。同様にブラジルの中で感じる多様というのも結局はブラジルの範囲を超えないのだろう。だから、色々な国に行って複数の多様を体験するのが理想なのだろう。 今月は旅行のチケットとかを買ったので金がかかった。
内訳 | 費用(現地通貨) | 日本円換算 |
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家賃 | 1,025 | 27,842円 |
水道光熱費 | 0 | 0円 |
学費・教材費 | 0 | 0円 |
交通費 | 100 | 2,716円 |
通信費 | 0 | 0円 |
食費・その他 | 6,900 | 187,423円 |
合計 | 8,025 | 217,981円 |