歴史学入門の授業が先月終わり、この授業で改めて面白いと思ったのは、事実というものの脆弱性である。ここでいる事実というのは人間が残すタイプの事実だ。つまり、この世界には重力があるとか地球の外には無重力空間が広がっているとかそういうタイプの事実ではなく、歴史やある人間社会の中で発生した出来事に対する事実ということである。これらの事実は非常に脆弱である。まず、ある事実が発生した際にそれを記録しておく媒体が、そもそも脆弱である。インターネット技術がなかった時代にはそれは紙や木などのものに情報が記録されていた。これらのものは風化しやすいし、壊れやすい。(この点に関しては石などは優れた記録媒体なのかもしれない。)また人間の手によって容易にそれらを破棄したり、修正したりすることが可能である。インターネットが出現したことにより、デジタルデータは破棄されにくかったり、データにアクセスしたことに痕跡が残るので改ざんしずらかったりするのではないかという期待もあったが、AIの出現により、おそらくそれらの期待はなかったものにされてしまうのではないかと思う。それどころか、今までは一応世界で実際に起きた事実が記録され、それが改竄されるというような流れであったが、AIにより、事実と虚偽の区別がそもそもできなくなってしまうのではないかと思われる。最近では本当にリアルな人間の動画をAIが作ったり、大手PC編集ソフトでは編集の際にAIを用いて、実際にその写真の中にはないものを追加したり、写真からAIがその周りの風景を予測することで写真の大きさを変えることができるようになったりしている。事実と虚偽が区別できなくなるというのは未来の話ではなくい、今もうすでにそうなっているのかもしれない。そこで問題になるのが、事実が作られる、ある出来事が事実だと言われるようになる過程である。事実と言われるとどこか客観的なもののように聞こえるが、果たして実際のところはどうなのであろうか。論理が通っているかどうかが事実を作るのか。それだとしたら、AIの作るものとは区別が困難になるので、また事実の認定方法の問題に戻ってしまう。それか、事実を事実度的な数値にして、事実というものは断定できないが、どれだけ事実度が高いかという判断基準に変えた方が良いのだろうか。 バイーアに旅行に行き、教会を訪れた。そこはだいぶ昔に作られて、何回も修繕工事をしているということであった。この話を聞いて、人間の体と建物は同じだと思った。人間の体も日々細胞は生成され、役割をまっとうできなくなった細胞とそのポジションを交代している。昨日の自分と今の自分では構成されている細胞は全く違うのに、それでも同じ一人の私として存在している。これは建物、特に歴史的な建造物もの同じである。その建物が作られて時代に建物を支えていたものと、今、私たちが、触れたり、見たりすることができるものは全く違うのに、それでも私たちはその建物に歴史を感じ、昔作られたものと同一のものだとみなしている。このことはいわゆる「テセウスの船」の問題である。これを構成するものが違うなら、昔と今ではそれは完全に違うものになっているということもできる。しかし、それでは不都合が色々と発生しそうである。例えば、戸籍の問題はどうなるのであろう。この問題を解決するのはなかなかに困難であろう。だから私たちはこのテセウスの船の問題に対しては同じものだと答えざるを得ないのではないだろうか。では、そのような仮定に立ったときには私たちは昨日と今日で構成するものが違うが、同じものだとどのような論理で言えば良いのだろうか。これは上の事実の話と少し似ている。つまり、ある歴史的事実だとされるものの名称がある。しかし、その内容が実際に起こったこととは違ってしまっていたとしても、私たちはその名称を使うことができる。しかも、その内容が間違っていても間違っていることに気づかなければ、違っていることを同じものだとみなしているのだ。すなわち歴史的非事実と歴史的事実が同じ名称であるということの元に同一視されている可能性があるのである。
内訳 | 費用(現地通貨) | 日本円換算 |
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家賃 | 1,039 | 30,979円 |
水道光熱費 | 0 | 0円 |
学費・教材費 | 0 | 0円 |
交通費 | 50 | 1,491円 |
通信費 | 0 | 0円 |
食費・その他 | 6,500 | 193,804円 |
合計 | 7,589 | 226,274円 |